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空飛ぶ馬と私

円紫さんと私シリーズ最新作を読みながら、初めて「私」に出会った十数年前を思い出す。
読みたい作品とは違う作品だったけど、年齢を重ねた「私」はそこにいた。
別人になっていてびっくりした。でも確かに「私」だった。

高校時代だったかな。「これが最高のクリスマスの過ごし方だ!」と『空飛ぶ馬』を読み、『リフレインラブ2』をプレイして、夜はキリンジの『千年紀末に降る雪は』を聞いて眠った。めちゃくちゃだったけど、確かに最高のクリスマスの過ごし方だったし、あれ以上の過ごし方はたぶん未だに出来ていない。

『空飛ぶ馬』のラストは今思うと、あれは若さを描いたラストだったと思う。あの年齢の主人公でなくてはああは終われなかったはずだ。
"人は誰もそれぞれの人生という名の馬を駆る"
という一行は時々思い出す。
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平日朝八時から観客二人(自分含む)の映画館でキメる『アトミック・ブロンド』はどんなに控えめに表しても最高の映画体験でしかなく、俺は映画館を出てから衝動的にウォッカを買いに走った

 ……というわけで、タイトルだけで何を観てどんな衝撃を受けたのかわかっていただけると思うんですが。


 『アトミック・ブロンド』最高でした。

 観客二人の朝の映画館というシチュエーションも相まって、最高でした。

 観終わった瞬間に

「あーはいはいはいはいはいはいはいはい!!!!!アトミックブロンド!!!!アトミッッッッッッッッックブロンド!!!!!!!!」

 ってなったぐらいに最高でした。

 内容としては、ベルリンの壁崩壊直前(マジで直前)のベルリンを舞台に、MI6のスパイがKGBを相手に極秘のマイクロチップを入手しようとするところにCIAやフランス諜報部も入り混じって事態がどんどん混迷していくっていう、平たく書くとそれだけの話なんですが。

 間違いなくアクション映画ですしスパイ映画なんですけど、女エージェントの華麗なスパイアクション(アクションはかなりあるけど華麗ではない)を期待していた人や、007のような娯楽アクション映画を期待していた人は、いまいちどこでカタルシスを感じればいいのか戸惑うと思います。

 この映画、地味なんですよ。

 いや、派手なんですけど、アクションとか演出とか。

 ただ物語としての起伏はそれほど激しくあるわけではなく、やってることはアクションなんですけど、話の展開は、誰がスパイで誰が味方で、それぞれの目的はなんなのかっていう人間同士の腹の探り合いなんで、けっこうそれぞれの人物たちは慎重に動いたり暗躍したりするばっかりなんですよね。

 だからわかりやすく「〇〇すれば世界が(と言うか味方陣営が)救える!!」とか「〇〇しないと世界が滅びる!!」とか「〇〇という強大な敵を倒せ!!」とかいう物語のゴールもないし、そもそも誰がどういう思惑で動いているのか、どちら側についてるのかが少し複雑だったりもしますし、見目に派手なアクション(爆発三昧とか、マシンガン&マシンガン&ミサイルの豪華絢爛な銃撃戦とか遠大な土地と予算を使った手に汗握るカーアクション)とかがあるわけでもないし、何よりも色調がずっと暗いので、たぶん「女スパイ+アクション」っていうので想像してみた人は少し肩透かしをくらうと言うか、違和感覚えるかもしれません。


 でも大丈夫、シャーリーズ・セロンの生々しいまでの痛烈なアクションに慄けばいいんです!

 とにかくシャーリーズ・セロンのアクションがすごい、すごすぎる。

 いや、僕、映画観てるときに「この役者さんはこんなことできてすごいなあ」みたいな視点で観るってことそうないんですけど。

 シャーリーズ・セロンは凄い。

 圧倒的でした。

 アクションの一つ一つが生々しい。

 「殴った、蹴った、投げ飛ばした、でも敵が立ち上がった、だからまた殴った、倒した」

という一連のなんでもないアクションシーンが

「殴った、お返しに結構殴られた、結構殴られて痛いけど蹴った、蹴られた敵があまり効いていなくてそれでも向かってきた、ほうほうのていで投げ飛ばした、敵が呻いて悶えている間にもこちらの殴られたダメージは甚大でぜえはあぜえはあ言いながらとどめを刺そうとふらふら歩いていきなんとか渾身の一撃を食らわせた、倒された敵はぴくぴく動きながらも階段を転げ落ちていきやっと動かなくなった」

みたいな。

一つ一つのアクションの動機と表現が丁寧なんですね。
監督は『ジョンウィック』の監督とのことですが、確かにあの映画も淡々と殺しまくっていて凄まじかったんですが、もう、そこを越えてますね。

そして何より素晴らしいと思ったのは、ダメージの表現なんですよ。

美しいスパイであるシャーリーズ・セロンなんですが、肉弾戦を繰り広げていく度に生々しい傷か増えていくんですね。アザとか切り傷とか。顔にも出ますし、体にも。
それらは恐らく本当に傷になっているようなものもあるとは思うんですが、アクションシーンで実際にはこう受けているであろうって傷を生々しくメイクで残していっているわけです!

あの、よくバトル漫画やアクション映画で、けっこう激しく戦ったはずなのに次のシーンでは傷も残ってない、みたいなのがないんすよ!

そうして戦っていくシャーリーズ・セロンは回を増すごとに、もう本当に、本当にボロボロになっていきます。
かなり、痛々しいわけです。
それなのになぜ彼女は戦い続けるのか、戦い続けなくてはいけないのか。
ほとんどその内心の描写はされず、あくまでプロフェッショナルとして鉄面皮のまま傷ついていくシャーリーズ・セロンしか描写はされておりません、しかし、シーンの端々から、傷の一つ一つから、彼女の諦観や怒りやそして少しだけの哀しさが伝わってくるのです。
そしてそれはかなりの名脇役というか第二の主役でさえあるジェームズ・マカヴォイやその他のスパイたちからも伝わってくる、スパイという人種そのものの哀しさであったり諦めなんです。

パンフレットにも書いてありましたが、実際に冷戦下のスパイは社会不適合者的な人々をスカウトして使っていた場面も少なくなかったそうで、そういう、マイノリティの社会に対する姿勢、みたいなものにも作中少し触れられていました。

もちろんアクション観るだけでも楽しい映画ではあるんですが、特筆すべきはそのアクションからも伝わってくるストーリーがある、実は繊細な映画だということです。
アクション作品という枠組みの中でスパイという人種の描写を淡々とし続けていく女版ハードボイルドって感じ。そう、淡々と。


あ、あと、この映画、確かにシャーリーズ・セロンのどぎつさが全面に出ている映画ではあるんですが、ジェームズ・マカヴォイの映画でもありますからね!
あの『フィルス』でみたグッシャグシャのマカヴォイが今作も大活躍しておりますよ!


イヤーもう一回映画館で観たいけど、もう無理だろうなあ。
あの、15分くらい?ノーカットでアクションからカーチェイスまで行ったのとかスゴすぎた。

『ゼロの未来』『ヘルレイザー』『テラフォ―マーズ』

 つって、アカデミー賞が何とか言っておきながら、立て続けに観たのは『ヘルレイザー』と『ゼロの未来』と『テラフォ―マーズ』でした。

 『ヘルレイザー』はもう文句なしにおもしれかった。
 素晴らしい映像技術と、ほどよい怖さと、名演技と、設定の怪しさでした。
 その前に怖いもの見たさで『テラフォーマーズ』の映画観ちゃった(キツすぎて最後まで観られなかった)から、なおのこと、あのわけわかんない世界観に対して素晴らしい物語の運びだと思った。

 『テラフォーマーズ』はキャラクターが全員、設定をしゃべる機械と化していて、なんか恐怖すら感じてしまった。
 あれすごいですよ、皆さん一度観るべきですよ。

 僕は漫画版読んでますけど何が起きてるのかわかんなかったですからね。

 全員設定しか話してないのにですよ!?
 設定しか話してないのになにがおきてるかわかんないんすよ!?
 生死かかってるのに焦ってるやつとか走ってるやつ一人もいないのも怖かった。エチュードなのかな。

 『ヘルレイザー』はリブートも企画中らしいし、どんどこ観ていこうと思いました。


 『ゼロの未来』はテリーギリアム好きだし、っつって観始めたんだけど、特に何かがすげえ面白いってわけじゃなし、切れ味もなんかそれほどなかったけど、淡々と物語が進行していくところと唐突に救済が訪れるところは割と好きでした。
 カオスを内包する無の先に自分がとどまったのが過去の思い出の世界っつうのが。救いありそうでないんですけどね。綺麗な終わり方でした。
 自分のことを自分で思ったように規定していしまう人間の話でもあると思って。
 ボブの「新しいことを始めんのに年齢なんて関係ないさ」ってのと「僕は若いから矛盾を内包できる」みたいな台詞はズバリそれに対するアンチテーゼになっていたと思うんだけど。
 自分自身をカテゴライズしてこういうものだと決めつけた時に、一つの方向性にしか先行きはなくなるし、それはすげえもったいないな、と。

 この作品、とにかくボブがめちゃくちゃいい役で、そして重要で。まあ半ばずるいんだけど。
 彼はとにかくコーエンの真逆と言うか、コーエンに無いものをすべて持ち、コーエンが持つものをすべて持たないっていうキャラクターで、例えば「僕は疲れてる、休みたいんだ、外へ出よう」って台詞とかも、彼は休みたいとき外の世界に触れるんですよ。コーエンは休みたいときひきこもるんだけど。
 その辺如実に二人の対比になっていて。
 ボブが執拗に「我々っていうのをやめろよ」って言うのも、あれは自分自身をこうだと決めつけて、「こういうタイプの人間」として主語を大きくする言い方をしている人間への批判だと思うんすよね。
 みんながこう言ってるから、とか、みんながこうしてるから、とか。
 ボブは社会の中で個人であろうとするから孤独だし、コーエンは個人なのに社会に対して自己を合理化したがるから孤独っていう。二人とも真逆なのに結局は孤独になるっていうのが、わかりやすいけどめちゃくちゃいい関係性だと思いました。

 相変わらず社会における個人、みたいなテーマは生きていて、そこんところはテリーギリアムぅ!って感じでしたけど、もう少しいろいろ遊んだり、尖ってもいいのになあとも思いました。好きでしたけどね。

FC2ブログでアカデミー賞を叫ぶ

 僕は俳優である。

 僕のことをご存知の方からしてみれば、ぬわーにを今さら、と言われるだろうけれども、言っておかないと忘れそうなほどここ最近 俳優らしいこともしていないもんで、そりゃあオーディションなんかは受けてますけど定期的にレッスンを受けたりとか芝居に出たりとか撮影があったりとか、そういう風なことをしていないもんで、言っておく。

 僕は俳優である。


 で、同時に僕は小説を書いている。

 これはどちらかと言えば趣味的な色合いが強く、コツコツ、書いては賞に投稿したり、直したり、また書いたり、としていて、声を大にして言うようなもんでもないけど、まあ小説を書いている。
 俳優の活動と状況は似たり寄ったりな気もするけれど、こちらの活動をなんで声を大にして言うようなもんではないと卑下するのかというと、単に恥ずかしいからである。僕にとって小説を書くということはひどく個人的な事なのです。

 で、まあ活動の是非や、社会的な評価はともかくとして、まあ僕は俳優であり、物書きであるのだ。
 どちらもまだまだ自称の域を脱出しきっていないけれど、まあどちらも正しく、そしてどちらにせよ、僕は表現者であることに変わりはないわけですよ。

 そんな僕だけれど、じゃああなた、俳優として、物書きとして、ちゃんと勉強していますか? 訓練していますか? と自分で自分を問い詰め、もとい、追い詰めてみた時に胸を張って「イエス! もちろんです! 勉強大好き! 訓練大好きです! 日本の人はみんな優しいです!」と言えるほどしっかりと自分の感覚や技量を鍛錬しているとは言えない後ろめたさがあるのもまた確かなのです。日本の人はそれほど優しくないです。

 勉強。
 あまり好きな言葉じゃない。

 訓練。
 それほど好きな言葉じゃない。

 なんだかどちらもこう、苦しいとか、辛いとか、そういうイメージがどことなく漂ってしまうような、悲しい学校教育の刷り込みがありまして、なんとなくこの二つの単語を前にすると身構えてしまう。

 あと関係ないけど僕は貧乏なので、お支払い、とか、請求、とか、督促、とか、そういう言葉も身構えてしまう。

 重要、も嫌いだ。

 そんな具合になんとなく気が進まない言葉たちの中に、勉強、と、訓練、も含まれており。

 これらの言葉に共通するのは、確かにやらなきゃいけないし大事なのはわかっているのだけれど 「わかってんだけどなあ、そう言われると、なんだかなあ……やりたくないわけじゃないんだけどなあ……いやあ大事だよねえ……」という煮え切らなさというか、怠惰な自分と建設的な自分とのせめぎ合い、カオス、混沌と混乱の部分が存在するということである。



 これはいけませんよ。


 これはいけません。


 やはり、感性というものは息をして寝て飯食ってオナニーして、というのだけを繰り返していたら、ずびずびと老いていくものでありますし、日々日々の労働や責務ですり減って摩耗していく自身の感受性を守らなければ、いけませんよ。茨城のり子先生に怒られますよ。うるおいを。うるおいを与えなければ、日々に。

 そんわけで、なんとかしなきゃ、と思っていながらなかなか何とかできない自分のケツを叩くのに良いものは無いじゃろかいと日々悶悶思いを巡らせていた僕でしたが、この度ようやっと一つの希望と言いますか、指針と言いますか、こちらの方向に光があるんじゃなかろうかというものが見えた気がしたのでこのブログを書いたのです。

 アカデミー賞 ですよ。

 アカデミー賞。オスカー。ね。

 やっぱりアカデミー賞なんじゃないですかね。


 何を急に言い出したんだこいつはと思われるかもしれませんが、やっぱりね、アカデミー賞なんじゃないすか? 結局は。

 取りたいっすよね、アカデミー賞。

 助演男優賞? とりたいっすね。

 主演男優賞? とりたいっすね。

 監督賞? いただけるのならとりたいっすね。映画撮れませんけど。

 脚本賞? よござんす、いただきましょう。脚本書いた事ねえけど。

 やっぱり俳優というものを名乗ったからには、欲しいわけじゃないですか、アカデミー賞が。


 大きく出ましたよ。ええ、大きく出ました。かなり大きいことは認めます。
 部活に入ってまだ三か月ぐらいの野球部員が「大リーグっすかー、やっぱいきたいっすねー」と言うぐらい大きく出ました。


 ちょっと大きく出すぎた感はしますね。ええ。少し、やりすぎたかもしれません。
 まあ、ともかく、アカデミー賞と言うのは、一つの、映画監督ですとか、俳優ですとか、芝居を用いて映像作品を作る人の夢見る憧れなわけじゃないですか。


 何も僕はアカデミー賞を今から目指すと言っているわけじゃないんですよ。

 もちろんそう言えたら格好いいし、そういう気持ちはね、持ち合わせてしかるべきだとは思いますけど。

 ただアカデミー賞どころか、国内の賞、はおろか、その辺の小さな広告のオーディションですら受からない選ばれないような自分をですね、少しでも高めるために何ができんのかと言うと、アカデミー賞から学ぶことっていうもんはあるんじゃないかと思うわけです。

 別にアカデミー賞じゃなくてもいいんですけどね。国内の映画祭とか、たくさんありますし、そこでもいいんですけど。

 まあでも、一つの権威であることには間違いないわけですから。


 そんでもって、アカデミー賞、について考えてみてくださいよ(まだ続くわけですよこのクソ長い文章)


 歴代アカデミー賞作品賞受賞作品、あなたはいくつ知ってますか?


 僕はいくつも知ってませんでした。

 まあ受賞は難しいかもしれないんでノミネートでもいいんですけど。

 フォレストガンプ! グリーンマイル! ララランド! ムーンライト! プライベートライアン! カサブランカ! 風と共に去りぬ! あとね、あとね!


 いや、さすがにもう少し思い出せます。ちなみに上記も受賞作品ではなくてノミネートのみの作品もありますけど。



 全然知らんかったんですよアカデミー賞について。



 恥ずべきことですよー。
 ねえこれはもう、恥ず、恥ずべきことですっ! ええっなんなんですか!
 さんざんここまでアカデミーアカデミー言っておいて、20作品程度しか思い出せないって……なに!?
 なんなの!? 

 そんなのでいいの!? 良いと思う!? 悪くはないよね! うん、悪くはない! 全然、あのう、人それぞれだからね! 人それぞれだから! 別にアカデミー賞作品全然知らないけどすげえ―売れてる俳優さんとかいるかもしれないしそれはそれで、あの全然いいです、違うんですこれは、段々なんか変な方向に話が行き始めたけれど、そういう差別的な、知識主義と言うか、いっぱい見た奴が一番偉いみたいなそういうアレではないんです。


 ただ、このなんとなくダラダラしている僕が、なんかやんなきゃ―と思いながらグダグダしている内にも名作と言うのは世に溢れていて、僕はそれを知らずに鼻ほじりながら「あーそうだよねえ、大事だよねえ、勉強だよねえ」とか言いつつ飯食って寝てってしてるだけなんすよ。

 そんなのってなくない? ないよねー。

 もう長文になりすぎてまとめも雑になってきてしまっているわけなんですけども。


 つまりはですね、勉強、と仰々しく言って一から勉強をするというのがぐにゃぐにゃぐにゃと言い張るならば、もう少しハードル下げてやれることからやんなさいよという、どこの自己啓発書にも一番最初のページに書いてありそうな糞みたいに些細なライフハックをですね、僕はここに打ち立てようと思うんですよ。


 ええ、そうです。

 歴代アカデミー賞全作品、全部観る。

 ということです。

 全部っす。全部。

 過去80数回歴代の作品。

 全部、見るっす。


 いやいや、わかります。映画ってそういうもんじゃないだろう、と言う指摘は。
 正しいです。
 ごもっともだと思います。

 もっと自由に、好きなように、気になる映画を気になるタイミングで見なさい、というのは当然の指摘だと思います。

 ただ、それをやってしまうと僕は「自分の気になる作品しか観ない」ということになりがちなんです。


 もちろん評判の良い作品や駄作を漁って自分好みの一作が見つかった時の喜びと言うのもまた、映画を見る喜びのうちの一つでとても大事だというのはわかるんです。

 ただ僕は上記にあげたアカデミー・ザ・全部見で、自分の知識や感性を磨くことのほかに、もうひとつしたいことがあって。


 それは「アカデミー賞ってなんなのか?」を知ることなんです。


 「アカデミー賞」の部分を「映画」にしてもいいし「映画製作」果ては「創作」でもいいと思います。

 
 映画と言う虚構世界。それに本気で挑み、時には死者すら出すほどのその創作活動と情熱とは、何から生じているのか、何なのか。

 それを知るために、世界最大級の映画賞であり、多くの創作者が目指すところであるアカデミー賞を少しでも知りたい、と言うのがこの企画の主旨です。



 とはいっても、ふっつーに見たい映画は山ほどありますし、そもそもアカデミー賞だけにフォーカス当てると邦画やアジア映画やそのほかアメリカ以外の映画が極端に少なくなるし、娯楽大作みたいなものもなかなか少なくなると思うので、特にアカデミー賞作品をひたすら見るというわけではありません。

 他の映画ももちろん見ます。

 ただ普段何気なく観る映画のなかにアカデミー賞受賞作品があればそれを逐一記録していきたいな、というぐらいです。

 まあ感覚的にはスタンプラリーみてえなもんですね。

 このブログを書くネタにもなりそうなので、この『オール・ザット・アカデミー賞』(これの元ネタのオールザットジャズだって僕は観てないんですよ、いやになりますよ)ぼちぼち続けて行きたいなあと思います。


 詳しくはまた後日。ではでは。

 企画倒れにならないといいなあ。

とりとめなどない

 最近、なにかについての文章しか書いてないし、ツイッターは他のひとのツイートが現れるのであんまり見ないようにしているしで、なんかダラダラ何かを書きたいと思った時になんかいい場所ねえかなと思っていたらそう言えばそうじゃん俺ブログ持ってたんじゃん! と思い至りこうして数カ月ぶりにブログを書いております。


 前回の記事からの数か月で本当に色々なことがあり、5月は文フリにニセ科学名義で出店したり、あとは特に何もないや。何もないですね。何をしていたんだ、この数か月。

 別に何もしていなかったわけではないのです。

 むしろずっと、それこそ京都行く前から何かをし続けていたという方が正しく、6月に完成するはずだった某新人賞投稿用の小説は遅々として進まず、うあーうあーなどと話してるうちに夏が訪れ、気がつけば8月。

 まだ完成していないのであります。

 つってもね! つってもね! 言いわけさせて!

 文フリ用のやつとか書いてたしね! あと、まあ、それぐらいしかないんだけど。つまり純粋に書けなかったってことなんだけど。

 今書いている作品、あと半分ぐらいで終わる手ごたえはあるんですけど、なかなか終わらなくて、これなんか原因あるんかな、これまで書いて来たのとちょっと違う進まなさだと思ってるんですけど、考えられる原因はつまり書こうとしすぎている限界が訪れたってことなんだと思うんですよね。

 僕はここ2,3年、小説を書く癖をつけるために、漫画を買わないようにしたり、ゲームも長く時間かかる奴はやらないようにしたり
色々制限をかけていたんだけど、結局のそのフラストレーションがここへきて現れすぎて、小説を書くこと自体に負荷がかかりすぎてんなあって思って。

 いや、楽しいんだけど、書き始めると。
 でも書くまでが、書いてからスピードに乗るまでが大変。もう大変。
 で、あんまりやりたいこととかそういうものを我慢している弊害なのかあとも思うんですよ。
 もっとのびのびとやらないと、全然、エネルギー、集中力のエネルギーが足りなくなってるなあと。

 だからまあ、もう、僕の20代も残すところあと2年だけだし。
 なんかやりたいことやろーと思って。いろんなこと我慢して、それでなんか目指すのは違うなと思いました。いや、努力は別ですよ。努力は当然しますけど。

 なんか、そんだけっす。
 ひとまず今月末まではがんばりますけど、来月からもう少し自分を自由にしてやろうと思いました。
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Author:fullyashiki
ツイッター @fullyashiki 名義でやっております。

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